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テーマ脳死・臓器移植の問題

専門的な分野での課題では、深く考察する練習を積み重ねることが大切です。
頻出のテーマ「脳死」と「臓器移植」の問題は、人の生と死を考えるうえで、近年大きな関心を持って論争が行なわれてきましたね。その点では専門家の間でもさまざまな意見が出されて、大変難しい問題でもあります。それ故、はっきりとした自分の意見を見つけにくい問題ともいえます。

脳死・臓器移植問題での考え方の一例を紹介します。

たとえば脳死を人間の「死」とすることには、現段階では賛成できないと主張したとします。その理由が少しあいまいで、根拠がはっきりとしていないようなケースがよく見られます。脳死を人間の死と認めない理由として、「数年後に意識を取り戻した人がいるから」と記述した場合、それは自分で確認した情報でしょうか? それは、確実に脳死状態と判定されたうえでの延命治療を行なわれていたのでしょうか? もしかしたら、植物人間状態だった可能性もないとはいえないのでは? 植物人間状態と脳死状態とは明らかに違いますね。このように、自分の意見を裏付ける根拠として、外から見聞した情報を利用するときは、伝聞であることを明示した方が、反論を未然に防ぐことができます。また、そういう不安を抱かないで済むように、出来るだけ自分なりの視点から考えた根拠を軸に据えるとよいでしょう。

たしかに、脳死と判定されても、心臓も動き、肌の色も変わらないままの状態でいる患者を家族は、とても「死」とは認めがたいと思います。しかし、それは生命維持装置によって細胞が生かされている状態でしかないとも考えられますね。脳はすでに回復不可能であるわけですから、そこに人間としての「意識の存在」あるいは「人格の存在」はあると言えるのでしょうか?

そもそも「脳死」を人の死の判定基準にしようという考えが起こってきた根本的な原因は、臓器移植による延命医療技術が進歩してきたことと、大きな関係があります。脳死段階での臓器移植は、いままで不可能だった臓器の移植も可能にします。そのために人間の「死」に対する認識を変えていこうとする医学界の動きを、あなたはどう思いますか? 臓器移植を国民に納得してもらい、末期医療の手段として普及させていくには、臓器を提供する側(ドナー)の「死」をどこで決定するか、という問題が必ず立ちふさがります。一人の犠牲によって、複数の人間が助かることは、たしかに美談のようにも思われますが、ドナー側の家族と、それに対する臓器移植を行なう医療従事者、延命治療を行なってきた医者の立場からそれぞれ心情を推し量ったとき、「一人の人間の死」の重さの認識は、あまりにも違いすぎるのではないかと思います。このような違いをあなたはどう受け止めますか?

脳死判定は現段階での確認の項目にも問題点が多く、どこで回復の見込みがないと判断するのかは、非常に難しいのではないでしょうか? 

これからの問題点として、自己決定の判断力が確かとは言えない子供や、自己の意思とは無関係に家族の判断で臓器移植の是非を決定されてしまう患者の権利はいったいどうなると考えますか? ドナーカードの存在自体もあやふやなものになっていく危険性がありませんか? ドナーカードは、まだまだ国民に認知されているとはいえない状況にありますから、これらの問題点を考えるにしても、個人がドナーやレシピエントの立場にたって話し合いをしたり、認識を深めたりするという意見を述べるだけでは、不十分ではないかと思います。国民全体が、日ごろからこれらの問題点や、さらに医療体制全体の認識について、具体的にどのような行動を取るべきだと考えますか? 行政機関や地域の中で、何が出来るかというところまで言及することも可能です。

またインフォームドコンセントをスムーズに行なう場合においても、医療従事者と国民の間の信頼関係を、今以上に高める必要性があると言えるのではないでしょうか。そのためには、人間の「生」と「死」に対する認識の違いをどのように解決していくのか、あなたなりに考察を深めていくようにしましょう。

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